SPECIAL INTERVIEW Vol.2 with FUMIYA TAKEMURA

3月20日にリリースとなったYogee New Wavesのメジャー1stアルバム『BLUEHARLEM』。大仰にいえば日本のロック史の失われた文脈を継ぐような、あるいは、人生のある季節で誰しもが経験する喪失と成長について歌った極私的な抒情詩のような――そんなスケールとパーソナルな質感を湛えた、この傑作アルバムを紐解くべく、メンバーそれぞれにソロ・インタビューを実施した。

 第二弾となる今回は、ギターの竹村郁哉。個性的な両親の影響を十二分に受けつつ、京都の片田舎に育った彼は“ある人物”との出会いで、音楽の本質に触れた。『BLUEHARLEM』は、そんな彼の音楽に対するナチュラルなスタンスが滲む作品でもある。「人の心の拠り所となる音楽」――Yogee New Wavesのギタリストとして、竹村郁哉が鳴らす音は今、一つの祈りとして響く。

天狗か仙人になりたかった幼少期

自分だけの世界に、一人こもって

――ボンちゃん(竹村の愛称)は、関西の出身でしたよね? 何年生まれでしたっけ?

90年生まれだけど早生まれだから、平成元年の学年。地元は京都の南丹市ってところ……知らないよね(笑)。俺が生まれた時は船井郡っていう名前だったんだけど、市町村合併で名前が変わって。その南丹市でもかなり山の方の日吉町ってところの生まれ。

――(Google Mapでストリートビューを見て)うわ! 思ったよりもかなり田舎ですね。

父親が前に日吉町の土地利用割合を教えてくれて。95%が山で、残りの5%が農地と人の家と道らしいよ。

――ほとんど山……! ご両親は、まだそちらにお住まいなんですか?

うちの両親は離婚してて。小学校5年生の時に、俺と姉ちゃんと母親とで母方の実家に移ったんだよね。って言っても、もともと住んでた家から車で5分ぐらいのところで。じいちゃんとばあちゃんと母親と姉と俺の5人と犬3匹で最初は住んでた。でも、ばあちゃんが死んじゃって、犬が2匹死んで、その後しばらくしてからもう1匹の犬も死んで、最後にじいちゃんも死んじゃったから、結局、3人で暮らしてたんだよね。姉ちゃんは、京都で看護師やってたんだけど、終末医療を学びたいって思ったらしくて、神戸の大学院行って、今は静岡で働いてる。俺は東京に大学進学で出て来たから、今は母親が一人で住んでる。

――そうなんですね。寂しがってるんじゃないですか?

寂しがってるね。「京都市内とか東京に出て来たら?」って言ったんだけど、やっぱり地元がいいんだって。

――ちなみにお父さんとは、連絡とってるんですか?

普通に連絡とってるよ、仲良いし。よくライヴに遊びに来たりする。この前も大阪のライヴに来てて、健悟になぜかHELLY HANSENのフリースをプレゼントしてた(笑)。

――Yogeeって、そういえばHELLY HANSENとコラボしてましたよね。お父さんなりに合わせたのかな……。

よくわかんない。健悟が「それ、かっこいいですね!」って話をしてたら、「俺、車で来たからあげるわ!」ってポンって渡してた。意味不明だよ(笑)。

――お父さんのキャラが濃い(笑)。小さい頃はどんな子どもでしたか? 

今でもあんまり変わらないと思うんだけど、めちゃくちゃシャイ。だけど仲良いグループの中ではリーダーシップ取る感じ。いわゆる内弁慶だね(笑)。ポンって一人でいると、途端に内に閉じこもる感じ。今は落ち着いて来たけど、昔はもっとその感じがあったかな。

――社会化されて、だんだん、大人になって来た感じですか?

そうそう。経験積んで、社会に適合してきたって感じ。でも、いまだに友達は自分の家には呼びたくなくて。自分のインナー・ワールドに招くことができるのは、本当に限られた人って感じかな。

――なるほど。小さい頃の夢とかって覚えてます?

大工になりたかった気がする。後、リアルな職業とは別に謎に昔から仙人みたいな存在にすごくなりたかった。天狗とか、そういう超越した存在に対する憧れがあった。なんか、浮世離れしたいなっていうのがあったかも。

――もしかして、ボンちゃん、一人遊びが好きだったタイプですか?

そうなんだよね、めちゃくちゃ好きだった! 友達とも遊んでたけど、一人で山になんとなく行ったりとかよくしてたなあ。

――あぁ、なるほどね。子どもの頃から自分の世界を作っていくタイプだったんだろうなぁ。

この前、友達と酔っ払いながら話してたんだけど、そいつが「人間・家理論」っていうのを急に提示してきたのよ(笑)。人の内面は家に例えることができる、と。家と玄関と家の中っていう構成要素が三つあって。「お前は、庭は広いけど玄関がめちゃくちゃ狭いから、なかなか家には入れない。しかも中に入ると隠し部屋がいっぱいある」って言われたんだよね。

――人当たりがいいから、いろんな人を庭に招き入れるんだけど、家、つまり心の中にはなかなか入れてもらえないと。しかも、家に入れたとしても、そこからまたいろんな扉があるわけなんですね。

そうそう。で、しかもその隠し部屋の扉は人によって開けられるものと開けられないものがある。誰か一人がすべての扉を開けるわけじゃない……って言われて、なるほどなぁと。

これまでも庭を広げる努力はしてきたんだろうけど、家の玄関を大きくするような努力はしてこなかったんだろうなって思って。もうちょっとどうにかしたいなぁとは思ってるけどね。

――なるほどね。そういう社交的でいながらも、人に心を許すには何重にもハードルがあるところが、ボンちゃんの人間としての魅力だと僕は思いますけどね。

そうかな。だと、いいけど(笑)。

――話は戻りますけど田舎で暮らしてると、なかなかカルチャー的なものに触れるの大変だったろうと思うんですが、ご両親が一番身近な影響源だったんですか?

そうだね。最近、実家に帰ったらさ、片付けしてたみたいで母親の部屋からたくさんレコードが引っ張り出されて、並べられてて。母親、結構いろんな音楽聴いてたのよ。Queenとか、David Bowieとか、Fleetwood Macとか。ブリティッシュで、中性的な感じの音楽。グラム・ロックとかも好きだったみたい。父親はThe ClashとかThe Damnedとかあぁいうのが好きで。元々はハード・ロック聴いてたみたいだけどね。ハード・ロックから、パンクにいって、ニューウェーヴも聴いてって感じだったみたい。

――あぁ、なるほど。

よく覚えてるのは、母親がQueenの1stが好きで。小学校1年生か下手すると幼稚園ぐらいの時に、車でよく流してて。それが生まれて初めて聴いた洋楽だったと思う。

中学生になると一人遊び癖が悪化していって、母親の部屋に忍び込んで漫画読んだりとかレコードを聴いたりしてた。すごく暗い部屋だったんだけど、赤色のランプが一つだけあって、ぼんやり光ってて。そういう部屋でThe ClashとかQueenを聴きながら、萩尾望都の漫画を読んでた(笑)。

――退廃的な雰囲気(笑)。お母さんは今で言うところの腐女子とまではいかないけれど、耽美的な世界観が好きだったんでしょうね。音楽にせよ、漫画にせよ。

確かにそうだね。『トーマの心臓』とかあったもんな。でも、父親の漫画もその部屋に置いてあったんだよ。だから、大友克洋の『AKIRA』とか手塚治虫の『ブッダ』みたいな漫画も読んでたのは覚えてるな。

――地元にはCD屋とかはあったんですか?

あったけど、本当に品揃えが悪くて、あんまり音楽的な教養をそこで得たって感じはしないかな。中学になってから、友達と京都市内に行くみたいなことが遊びの中心になってきて。自分でお金を払って、音楽を聴くってなったのはその頃かなぁ。楽器屋にいったり、CDショップに行って小遣いで買ったりしてた。

イジメを経験した中学時代の思い出

音楽を通じて繋がった父親との記憶

――上野くんは、The Beatlesみたいな洋楽の古典みたいなものも聴きつつ、ヒット・チャートの音楽も普通に聴いてたって言ってましたけど、ボンちゃんはどうだったんですか?

いや、俺も普通に聴いてたよ。L’Arc(~en~Ciel)とか好きだったし。そういえば、韓国とか台湾でツアーした時(今年2月に東京・ソウル・台北で行われた落日飛車との2マン・アジア・ツアー)、上野くんと部屋が一緒でずっとL’Arc聴いてた。「アレンジ、ヤバすぎ」「やっぱ、L’Arcすげぇ!」って盛り上がって。

――まぁ、上野くんにも言ったけど、バンドの音楽という意味で僕らの世代には影響大きいですよね、やっぱり。

そうだね(笑)。でも、今はそういうことできるけど、子供の頃は自分が一人遊びの一環で聴いていた音楽とか漫画は、すごく大切なものだったから、あんまり友達に共有したりとかはしてなかったな。そういうのがわかる人も周りにいなかったし。っていうか、そういう音楽はレコードで聴いてたからさ。プレーヤー持ってる友達がいないわけだから、貸し借りなんてあるわけもなく。

――友達とは仲良くやれてたタイプだったんですか?

仲よかったよ。でも、中学生の時に一回、いじめられた。それは俺の中で強烈な思い出として残ってるね。めちゃくちゃ恥ずかしいんだけどさ、中1の時に席が隣になった女の子とすごく仲良くなって、付き合ったんだよね。でも、その子が割とクラスのマドンナ的な存在で……クラスメイトから反感買っちゃって、無視されちゃった。

――結構、ハードですね。理由が青春って感じで、ちょっといい話な気もしちゃう……(笑)。その付き合った子は話してくれてたんですか?

うん。それが救いだったかな。付き合ってた間、半年ぐらいはクラスの半分くらいの男子に無視されてて。でも意外と気は楽でしたね。「そっちが無視するんだったら、こっちはこっちで楽しむからいいよ」的な感じで。多分、そのいじめが原因で一人遊び癖が悪化したんだと思う。

――どんな理由でもいじめは良くないですが、その経験が一つ自分にとって大事なものを見つめ直す機会にもなったと。ちなみに初めて楽器に触れたのはいつだったんですか?

姉ちゃんがピアノをやってたんだけど、発表会の妙な空気感が嫌で。「やる?」って聞かれたけど「ダサいから、絶対やだ」って拒否した(笑)。初めて楽器に触ったのは、中学1年生の頃じゃないかな? 父親が置いてった、アコースティック・ギター。

――それは独学で勉強してたんですか? それとも誰かに習っていた?

一人で弾いてたね。スピッツの「チェリー」とかを最初に弾いた気がする。コードとかもある程度覚えて。で、The Clashを弾いてみたらめちゃくちゃ簡単だったの。「White Riot」とか、A・D・Eの組み合わせみたいな感じで。

――自分で選んで聴き始めたリアルタイムの音楽って何か覚えてます?

その頃、メロコアが流行ってたんだけど、リアルタイムでは全然聴いてなかったな。Green Dayとか、Sum41とかを聴いてたね。ポップかつ、パンク感もあったから。

――じゃあ、アコースティック・ギターでずっとその辺をコピーしたりしてたんですか?

いや、中2の時に父親に「ギター始めたんだよね」みたいな話をしたら、「俺が昔、使ってたエレキあるからやるよ」って言われて、テレキャスターのシンラインをもらったんだよね。グレコが作ったモデルでボディーが赤にペイントされてて、ステッカーとか貼ってあった。でも、アンプはなかったから生音で弾いてた(笑)。

――結局、生音(笑)。じゃあ、中学時代はずっと一人でエレキやアコギをポロポロと爪弾いていた、と。

友達と遊びの延長みたいな感じでバンドをやったりはしたけど、そんなにマジじゃなかったですね。あ、でも、父親とも一回だけバンドやったんですよ。町内会の出し物みたいなやつで。「最近の曲の方が、みんなわかるし、ええんちゃうか?」っていう父親の提案で、アジカン(ASIAN KUNG-FU GENERATION)をコピーして。父親がベースで、俺の他にギターがもう一人いて、サトちゃんっていう3個ぐらい上の人。ヴォーカルは、父親の音楽仲間の寺田くんって人だった。ドラムの人の名前は覚えてないな……。

――お父さん、バンドやってたんですね。

そうなんだよ。ハードコア・バンドのベーシストだったらしい。なんかこの前、俺ら初めて磔磔でライブをやったんだけど。父親からその時にLINEがきて。「俺が40年ぐらい前にライヴした磔磔の舞台に息子が立ってるのは感慨深いわ」みたいな内容で。「は?」って思って、よくよく話聞いたらJAGATARAの前座で一回、磔磔に出たことあったんだって。

――えー、それはすごい。

ね、知らなかったからびっくりした(笑)。父親には「弦はこうやって張るんだぞ」とか色々教えてもらってましたね。そもそも父方の一家が音楽一家なんだよね。俺のおじさんもいとこもどっちもギター弾く人で。Sum41とかGreen Dayはそのいとこから教えてもらった。4つ年上で、ギターも上手だったから教えてもらったりしてたな。滋賀県に住んでたんで、そんなに頻繁に会うって感じでもなかったんですけど。お正月とか年に1回ぐらい会った時に色々聞いてました。

どんとの息子・ラキタとの鮮烈な出会い

音楽の本質に触れる体験、そして挫折

――ボンちゃんはミュージシャンになる素地が整っていたような気がしますね。バンドを本格的に始めたのは、高校に入ってからですか?

軽音楽部に入ったから、やるにはやってたけど、今思い返してみればそんなに楽しくなかったね。音楽的に合わない人とやってるから。ライヴもやったけど、ヴォーカルの女の子のやりたい曲を「わかった」ってやる感じ。サディスティック・ミカ・バンドの「タイムマシンにお願い」とか。

――じゃあ、あんまりいい思い出もない感じですか?

なかったなぁ。最近、高校時代によくつるんでた仲間の一人に会ったんだけど、その子に「私、あの頃、全然みんなに心を開けてなかった」って言われて。すごくギョッとした。俺はてっきり、みんながみんなお互いに楽しい時間を過ごしてるって思ってたから。あぁ……彼女は違ったんだなぁって思って。だから、俺、結構、細かいところとかにあんまり気づかない面倒臭がりの楽観主義者なんだなって気づいて。楽しい雰囲気とか信頼しちゃうんだよね。

――見ているものが実は違ったってことに気づかされるとショックですよね。大学に入ってからの方が、音楽的な広がりはあったんですかね?

そう。大学入ってからですね、本当に。軽音サークルに入ったんですけど、めちゃくちゃびっくりしたんですよね。京都のど田舎からきてるから、みんな音楽、異常に詳しくて。俺が聴いてたものとかみんな当たり前に知ってるし、もちろん自分が知らない音楽も知ってるし。でも、不思議なことに「自分のバンドをやろう!」ってことにはならなかったんだよな。

――サークルでは、どんなことやってたんですか?

くるりとかフィッシュマンズのコピーバンドとかやってたけど……基本的には部室でだべってセッションしてたな。この頃に、はっぴいえんどとか所謂、日本のニューミュージックとかロックも聴き始めたんだよね。俺、それまであんまり詳しくなかったんだけどね。

――いきなり、セッションはハードル高くないですか?

いやでもね、なんかいつのまにかできるようになってたんだよね。でも、思えば、ギターを始めた頃から面倒臭がりで曲を丁寧にコピーするのがそもそも苦手で、ある程度フレーズ覚えたらあとは適当にアレンジして弾いちゃう。そういうのがセッションに繋がってたのかも。わかんないけど。当時は、ギターよりはベースでセッションに参加してたな。

――じゃあ、ボンちゃんが最初に組んだ本格的なバンドっていうのはシェイクシェイクグループ(BO GUMBOSやローザ・ルクセンブルグで活躍したミュージシャン・どんとの息子である久富ラキタを中心に結成されたバンド。ラキタはOKAMOTO’Sのメンバーらとズットズレテレズのメンバーとしても活動していた)だったんですか?

そうだね。うちのサークルに「ないないぼーいず」っていうめちゃくちゃバカテクのバンドがいて。そのバンドの三人目のドラマーが超面白い人で。大学なんかとっくに卒業してるし、なんならうちの大学には在籍したことすらない人だったんだけど、なぜかうちのサークルに来てて(笑)。その人とするセッションが超楽しかったんだよね。で、その人に「バンドやろう」って引っ張られて……それがラキタのバンドだったんだよね。

――ラキタさんとは面識はその前からあったんですか?

BO GUMBOSのことはもちろん知ってたしね。俺の一個下の友達に沖縄県出身の奴がいて、そいつがラキタと友達だったんだよね。ラキタが初めて東京に出て来たときにそいつの紹介で知り合ったんだよね。それで仲良くなって遊んだり、ギター弾いたりしてて。「メンバー探してるんだよね~」みたいにその時も言ってたの覚えてる。で、その後、そのさっきのドラマーとラキタが一緒にやってるのをみて「いい感じじゃん」って思って。気がついたら、ベースとしてメンバーに入ることになった。

――でも、ずっとギターを弾いて来たわけだから、結構なチャレンジだったんじゃないですか? セッションはやってたとはいえ。オリジナル・バンドだから自分で色々考えなきゃいけないし。

そうだね。音作りもわかんなければ、ベースもそもそも持ってなくて。人からもらった変なやつを弾いてた(笑)。でもベーシストとして色々求められるから、結構、コピーしたかな。超定番だけど「The Chicken」とか、Stuffとか。あと、細野さんのベースラインも「超カッコいいな」と思って、コピーした。J-POPっぽいものはあんまり好きじゃなくてやってなかったけど。

――そこで、ベーシスト・ボンちゃんは鍛えられたんですね(笑)。

ラキタとは妙な繋がりがあって。ローザ(・ルクセンブルグ)とBO GUMBOSのベーシストで永井(利充)さんって、うちの親父のサークルの後輩だったらしくて。本当か嘘だかわからないけど「永井くんに最初にベースを教えたのは俺だ!」ってよくいうんだけど(笑)。後、母親が超レアなローザ・ルクセンブルグの「在中国的少年」のソノ・シート持ってたりとか……。

――関わりが結構あったんですね。初めてのプロパーなバンド活動はどんなものだったんですか?

うーん。ラキタと音楽を作るのって、音楽の心臓みたいなものを捕まえるような作業……シャーマン的な行為だったの。彼はジャンルとかそういうのにカテゴライズされない、音楽の本質に触れようとしている人間だったから、めちゃくちゃピュアで。

――余計な要素が入ってくると、きっとダメなわけだよね。

ダメ。そのときに今、ペトロールズとか星野(源)さんのバックでやってるギタリストの長岡(亮介)さんとかも一緒にやってたんだけど。当時はなぜかそのバンドでやるときだけ、コンパス長岡って名乗ってて(笑)。長岡さんはカントリーとかカントリーロックみたいなものがルーツにあるから、ラキタの「なんなんだろうこれは」的な世界観を説明する役割のプレイをしてた気がする。後の俺を含めたメンバーは、長岡さんとは違ってそのラキタの純粋培養された音楽性をなんとか掴もうとするみたいな感じだったと思う。

――初めてのバンドで、本当に音楽の本質的な部分と向き合うような体験を得たわけですね。

そうだね。でも、それってたぶん自分自身を追い込む行為なんだよね。だから、だんだん、ラキタが音楽できないレベルで精神的にどん底までいっちゃって、沖縄に戻っちゃったんだよね。だから、バンドの活動も縮小していって。一回、東京にラキタが戻って来たときに「暇ならベース弾いてよ」って言われて、一緒にやったことがあったんだけど……もう音楽的に話ができない状態。(OKAMOTO’Sのオカモト)レイジくんがその時、ドラムだったんだけどね。そういう状態のラキタを前にして二人とも「どうする?」みたいな感じ。「あー、マジか、ここまでいっちゃったかぁ……」ってすごくショックだった。

――シェイクは2012年に解散したんでしたっけ?

自然消滅って感じかな。理由が、グループの音楽性がとかじゃなくて、単純にラキタがそういう状態になっちゃったからもうできないってことだったから。まぁ、でも、そのときの経験はすごく生きてるよね。Yogeeでもやってる作業の本質は変わらない気がする。健悟の音楽世界を掴もうとするみたいな行為だから。

30歳になったら辞めようと思っていた

未来に繋がる扉に身一つで飛び込んで

――シェイク・シェイク・グループの他にも、ボンちゃんはampel(2009年結成のスリー・ピース・バンド。メンバーは竹村郁哉、河原太朗、吉岡紘希)でも活動してましたけど。こっちはギタリストとして参加していて。

そうだね。シェイクの活動の終わりぐらいにギターとして誘われて。タイプが真逆のバンドでしたね。スピリチュアルな世界観とは全然違う、理性的な音楽っていうか。今思うと、ラキタはそれも嫌だったんだろうなぁって。俺の片足、精神世界、片足、理性的な世界みたいな中途半端な感じが。まぁ、でも(河原)太朗は音楽的な理論とかをきちんと身につけてた人だったから、それは勉強になったなってのは思うね。

――ちなみに、この頃は音楽で一生食っていこう的なことは思ってたんですか?

いや、全然思ってなくて。就職もするつもりだったんだよね。だけど、あるとき、どっちでいくんだ? みたいなのを迫られた時があって。ラキタのバンドで絶対出たいライヴの日と、内定先の懇親会が被ったんだよね。すごく悩んだけど「どうしようかなぁ~。でも、まぁ、バンドの方が楽しいし、いいや」ってバンドを選んだんだよね。そのあとは地続きだよね、卒業して、フリーターしながらバンドやってって感じ。

――面倒臭がりで楽観主義っていう部分が、ここでも出てますね。

そう。で、これはよく話してるんですけど、僕は大学の時に恩師に出会ったんですよ。その人に「ドアが開いていると思ったなら、そこに飛び込んでみなさい」っていうのを言われて。その内定先とライブの2択を選ばなきゃいけなかった時に、バンドの方にドアが開いてるなって思ったんだよ。自分の未来を選択する上で、その恩師の言葉がすごく大きな理由づけになった。Yogeeに入る時もまた「ドアが開いてるな」って思ったんだよね。

――上野くんは、スタジオ・ミュージシャン的なこととかサポートとしても結構活動していたみたいですが、ボンちゃんはそういうことはしていたんですか?

全然やってなかったね。ampelやってたぐらい。毎日の生活に不安もあったから「30歳すぎてこんな感じなら、就職しようかな」とは思ってたね。ラキタとの体験って本当に自分にとって鮮烈なもので、これを一生できたら楽しいかもなとは思ってたけど、解散しちゃったし。バイトやりながらampelやってた頃は「バイトしながらこれを一生続けるのは難しいな」と思って。バンドメンバーともその頃には友達に近い関係になってたし、やってる音楽も日々生きている日常世界の延長線上の音楽だったていうか。もちろん、音楽的なトライもあったんだけど「ラキタとは違うな」って言う感覚はどこかであったかもしれない。

――じゃあ、もう、ある程度、これ以上の音楽的なワクワクはないかもなっていう諦めのようなものもあったんですかね?

そうかもしれない。実家に帰ってもいいなぁって思ってたし……就活しようかなぁとも思ってたんだよね。自分が音楽以外で何に興味あるのか、きちんと考えてみてもいいなって。大学時代に出版とかも勉強してたから、バイトで出版社入ってみたいなのもありかなって。それが27歳ぐらいだね。そのタイミングで健悟から連絡があったんです。

リード・ギタリストとしての自覚

葛藤を経て、開眼した今のYogee

――その後、サポートを経て、正式加入を決めるわけですけど。さっきも「開いているドアに飛び込んだ」みたいな話がありましたけど、Yogeeに参加すると決めたのには何か決定的な理由があったんですか?

Yogeeの音楽は聴いていたし、そこからラキタの音楽に感じたようなスピリチュアルな要素とかシャーマニズム的なものを俺は感じていて。その時からドアは開いているような感覚があったんですよね。実際に、健悟やカスちゃんと話してみて、それが確信に変わって。自分のテクニックの部分とかで不安もあったんですけど、そこも楽観主義で(笑)。とりあえず入ってから考えようと思った感じでしたね。

――実際に、音を出してみての感覚はどうでした?

サポートとしてやっていた頃は、今から考えるとまだ全然Yogeeの音楽のことが見えてなかったんだろうなって思う。ただ、やっぱり、音楽の心臓を触ろうとしているバンドだなっていうのは最初の頃から思ってましたね。音楽でこんなに心が動くの久しぶりだな……って思ってました。

――でも、正式加入から『WAVES』のリリースまで、結構、間がなかったですよね。まだまだ手探りの状態でのレコーディングだったんじゃないかなと。

そうだね。『WAVES』の時って、生活が変わっていく途中の段階で。まだバイトもしてたから、本当に大変だった。時間もないし、曲は多いし、フレーズをブラッシュ・アップする間もなく、録音してって……とにかくがむしゃらだった。

――Yogeeを自分のバンドとして、みれるようになってきたのはいつ頃だったんですか?

うーん。それは、本当に2017年の末とか去年の始めとかからじゃないかな。最初の頃は健悟の世界観に色をつけるみたいな作業に近かったなって思ってて。『WAVES』のツアーが終わって、『SPRING CAVE e.p.』をレコーディングした頃ぐらいから、変わり始めてきた。自分が楽曲の中で核を担ったりする場面もなきゃいけないっていう、そういうリード・ギタリストとしての自覚が芽生えて。

――Yogeeのメンバーやスタッフさんにも当時言いましたけど、『SPRING CAVE e.p.』が出た時に『WAVES』のムードを引きずってるんじゃないかな、もっと違うYogeeが見たいなっていう思いが一人のリスナーとしてあって。メジャー・デビューだから、あぁいうフレッシュでパワーのある楽曲をシングルとして出すって意味もわかるんだけど。

その時期はやっぱりメジャー・デビューして、これからやっていくぞ! っていう中で、バンドとしてどうしていこうかっていう葛藤はすごくあった時期だね。折り合いをまだ、自分たちの中でつけられていない感じ。もちろん、あのE.P.の曲にはどれも思い入れがあるんだけど……「PRISM HEART」とかね、やっぱり好きなのよ(笑)。

――うん。まさに、それは思ってました。これがリードだったらまた違ったんだろうな、と。

だけど、あれをリードにすることはちょっとできなかった。今はかなり悟ったっていうか、開眼している状態だから、自然と『BLUEHARLEM』もそういうアルバムになったなと思うんだけどね。

自然体で臨んだ『BLUEHARLEM』

自己主張がナチュラルにできた感覚

――上野くんは、今年の秋のツアーが大きな転機になったって言ってたんだけど、ボンちゃんもそれは感じてました?

そうね。100%自分たちの実力を出せたなっていう感覚はあった。今までとは違う次元の満足度っていうか。それはサポートの二人が居てくれたってこともあるし。テーマを持って臨んだツアーだったから。「CAN YOU FEEL IT」っていう曲を軸に、Yogeeのファンクな部分とドープな部分を新曲を交えて世界観をみせるってことにチャレンジしてて。Yogeeって音楽性的にあまりにも球を持ちすぎてるから、それをある種、絞ってみせることができたんじゃないかな。

――今回は『WAVES』の時とは違って、少し余裕を持ってというか、リード・ギタリストとしての自覚も持って制作に入れたのかと思うんですけど、いかがですか?

今回も、レコーディングの日程的にはタイトなところがあったんだけど、自然体でできました。こだわったのは音色かな。アンプとかエフェクターとか、音の質感にこだわって。自己主張がそこですごくできたんだろうなっていうのはある。

――前に、角舘くんが「ボンちゃんのギターが曲の構成を作っていくものだとしたら、俺のギターは空気感を出すものなんだ」っていうような趣旨のことを言ってたんだよね。だけど、今作に関しては二人ともそういうムードみたいなものを構成するプレイをしていますよね。

その辺、「Suichutoshi」とか「emerald」とか、すごくこだわりましたね。自分の音が曲の景色の主体になりたいっていうことは思ってましたね。苦労したのは「CAN YOU FEEL IT」ぐらいかな。後は、全曲「こうだな」って最初に思ったことが全部はまった気がしてる。

――ギターのパートの振り分けとかは、どういう風に決めてるんですか?

どの曲もあんまり決めてないね。録る前にちょっと合わせたりするときに、健悟のプレイを見てて「あぁ、健悟がそう弾くんなら、俺はこう弾くよ」ぐらい。「emerald」とかはソロをハモったりするところがあるんだけど、あれはライヴで健悟がやってくれて。「あぁ、いいじゃん。最高じゃん」的な感じで取り入れましたね。あの曲に関しては最初のデモの段階で「ベース、こういうの入れたらいいじゃん」とか「俺、ここでスライド入れるわ」とか世界観がスッと入ってきて見えてた曲だったんですよね。

――本当に純然たるバンド的な作り方ですね。ボンちゃんのプレイって、やっぱりベースやってたからかもしれないけれど、ギターのフレーズがすごくグルーヴを大切にしているじゃないですか。

んー。でも、それも狙ってできてるわけじゃないんですよね。ライヴとかしてても、「あれ? ちょっと違うな」って思うときって、自分が原因のときもあるけど、周りがグルーヴしてないときもあって。もともとあるベースとかドラムのグルーヴが主体で、そこに自然と併せるって感覚なんですよ、僕的には。

――じゃあ、他の人の音をとにかく聴いていると。「SUNKEN SHIPS」のドラムがいいってボンちゃん言ってましたよね。

そうかもね。「SUNKEN SHIPS」の粕谷は、本当にフレーズがいいよね。意味不明で(笑)。細かいフィルとかじゃなくて、曲全体を担っていくようなビートをお前叩くんだみたいな驚きがあった。健悟はドラマーだったっていうのもあって結構、細かくリズムを作るんだけど、この曲に関しては全然手を入れてない。上野くんは「SUNKEN SHIPS」の「ドゥドゥドゥーン」って下がるところとか、本当に最高すぎて。「上野恒星、お前は最高だぞ!」って100回ぐらい本人に言ってる(笑)。あと「Suichutoshi」のブレイクの「ンー」ってフレーズが凄い。

信仰と生活の繋がりが消えた今

心の拠り所となるような音楽を

――『BLUEHARLEM』は、さっきボンちゃんが言っていた「音楽の本質に触れようとする」という試みが十二分にできたアルバムだったんじゃないかと思うんですよ。

俺もそう思う。よくできたなってのは思う。多分、ラキタが触れようとしていたのって音楽の「精霊」とか「神様」みたいなものだと思うんですよ。だけど、Yogeeの場合はそれが「人間」の中にあると思って。曲の中で出てくる景色とか捉えようとしているものは、人間の中にある宇宙とか世界みたいなものなんじゃないのかなって思うね。個々人の中にあるものっていうよりは、人類全体が共有している心象世界みたいなものを捕まえようとしている感じ。

――このアルバムを聴いていると、それが理由なのかわからないけれど、実際には録音されていない音も聴こえてくるような気がするんです。オーケストラとか入れてやってみても面白いんじゃないかなって勝手に思うぐらい、曲のスケールと深度が大きくて、深い。

いいこと言いますね。確かに幻聴多めのアルバムだよね(笑)。

――ふふふ(笑)。本人たちの意図してなかったものが出てきてしまうって言うのは、上野くんにも言ったけど、名盤の証だと思いますけどね。

そうかもね。俺、他のメンバーと普段からよく話すんですけど。上野くんは1曲目の「blueharlem」は歌詞いらなかったんじゃないかって話してて。それも理解できるんだけど、俺はこの曲があったから、また旅に出れたんじゃないかなって作った後に改めて聴いてる時に思って。この曲って、アルバムの中の時系列的に言うと一番後に位置する曲なんだよね。「SUNKEN SHIPS」で島の外に出た後、新しい世界にいながら、島にいた頃の日々を思い出している。まぁ、これは意図的って言うか、健悟の心の中にある深層意識みたいなものが書かせたものだと思うんだけど。「あ、俺たち、もう新しい場所にいるんだ」って言う。ちゃんと未来も提示してるんだよね。

――なるほど。

でも、じゃあ次に何を作るかって言われたら、あんまり実はそれわかってないんだよね。また次のアルバムなりシングルなりを作るってなった時に鳴らす一音目でわかるような気がしてるっていうか。もちろんバンドとして、Yogeeの持ってるダブ要素とか心地よいリズムとか東京っぽさみたいな部分を刀にしようって話はメンバーやスタッフとも話すんだけど、現実問題として音出してみないとわかんないからね(笑)。まだ、俺ら自身、このアルバムを咀嚼できてないし、ライブでやってみて、それからかなって気はしてる。

――船に乗って、目的地を設定して旅をしていたとしても、そこにたどり着くまでにはいろんな過程があると言うか。

そう。過程が大事な気がするんだよね。インドいると思ってたら、アメリカじゃん。でも、行こうとしてるところはモロッコみたいな。ただ、自分たちの現在地を見失うことはないと思う。『BLUEHARLEM』がいつの間にかできてた夢みたいなアルバムなのと同じように、「明日、雨降るんじゃない?」ぐらいの感覚で次の自分たちの音が絶対に見えるって確信はありますね。

――にしても、今回の『BLUEHARLEM』のような、現実の生活の意識とスピリチュアリズムが同居した音楽が世の中に今日本でポップ・ミュージックとして出ていくっていうことにはある種の希望も感じますね。

あぁ、そういう意味でいうと俺、この間、インドに行ってきたんですけど……。

――例の旅行話ですね。Yogee全員がそれぞれ旅行に出かけたっていう(笑)。

そうそう(笑)。例に漏れず、俺もインドでめちゃくちゃ衝撃受けたんですよ。インドって、信仰がめちゃくちゃ自然に生活に結びついているんですよね。地元の人に「ガンジス川ってどうやってできたの?」って聞いたら、地学的なことじゃなくて、普通に「あぁ、シヴァ神がヒマラヤでさぁ~」みたいな感じで話し始めて。聞いてるこっちは「え?」って感じになるわけですよ。「この遺体を焼く場所の火はすごい神聖で、3000年間一度も消えてないんだよねぇ~」とか……。事実とか嘘とかどうでもよくて、そういうものとして信仰と生活がそこにある。俺ら日本人が抱いている信仰心とか宗教観って大多数の人にはまったく生活に結びついていないじゃない? これってなんなんだろうってすごく考えて。

――面白い。

で、インドのヒンズー教からチベット仏教にも興味を持ち始めて、いろいろ本読んだりしてたんですよ。でも、やっぱりチベット仏教も俺ら日本人の今の感覚としては意味不明なんだよね。神様が地面に埋めた秘儀が発見されてたり、お坊さんが死んだらめちゃくちゃ小さくなったり、そういう嘘みたいな奇跡が実際に起きてるわけ。こういうものがない、日本って何か大切な拠り所を失ってるのかなって思ったりもして。

――そうですね。日本においては、特に近年生活における信仰みたいなものの存在感は限りなく薄くなってますよね。

俺はそれは日本の場合は、音楽がその代わりになれるのかもしれないなって希望を持っていて。健悟は「音楽で日本を良くしよう」ってよくいうんですよ。「究極的に突き詰めるとそこだ」って。音楽って拠り所になるじゃないですか。人間の原初の活動だし。

――確かにそうですね。

宗教を信じるのは難しいかもしれないけれど、音楽を気持ちいいって思うのは本能的な行為だから。理性的に信仰を得ようとするのは難しいけれど「なんかいいよね」って、まさに信仰における祈りの感覚に近いんじゃないかなって思うんだよね。だから、今、日本に必要なのは純粋な音楽なんですよ。僕ら、飯食うために音楽やってるわけじゃないから。どうやってミュージシャンが飯食うとか、業界でサバイブしていくとか、どうでもいいじゃないですか。音楽の本質的な部分をもっと僕らは突き詰めていきたいなって思ってますね。

SPECIAL INTERVIEW Vol.1 with KOSEI UENO

3月20日にリリースとなるYogee New Wavesのメジャー1stアルバム『BLUEHARLEM』。大仰にいえば日本のロック史の失われた文脈を継ぐような、あるいは、人生のある季節で誰しもが経験する喪失と成長について歌った極私的な抒情詩のような——そんなスケールとパーソナルな質感を湛えた、この傑作アルバムを紐解くべく、メンバーそれぞれにソロ・インタビューを実施した。 第一弾となる今回は、ベースの上野恒星。 誰よりも、音楽という表現に対して冷静で批評的な視点を持つ彼だが、『BLUEHARLEM』は無意識の産物に近い作品だという。The Beatlesの「Nowhere Man」から始まった上野の音楽遍歴についても話は及びつつ、Yogee New Wavesの今について想うところを訊いた。

小学生の頃、「Nowhere Man」を聴いて、俺は将来、音楽に夢中になるなって確信した

——今回のインタビューでは『BLUEHARLEM』のことも勿論伺いたいんですけど、メンバーの皆さんのこれまでの遍歴みたいなことも伺っておきたくて。

生い立ちみたいなところから聞いていく感じですか?

——そうです。個人的には僕もYogeeと付き合いが長いけれど、意外とYogeeのメンバーのパーソナルなことは知らないなと。この機会を利用してもっと知りたいなっていう興味があって。あと、作品自体も「喪失」とか「成長」みたいなことをテーマにしているので、文章にしておくことで、もっと『BLUEHARLEM』を楽しんでもらえるんじゃないかなって。

あぁ、なるほど。たしかにね。よろしくお願いします。

——よろしくお願いします。じゃ、改めて。そもそも、上野くんはどこ出身なんでしたっけ?

福岡県福岡市博多区から東京にやってきました。18で、大学入るまでずーっと地元にいましたね。

——Number Girlみたいな入りっすね(笑)。結構、都会っ子なんだ。地元ではどこで遊んでたんですか?

小学生の頃は天神とかに親と一緒によく行ってました。中学とか高校になると、大名とか親富孝通りとかあの辺のちょっと不良の匂いのするエリアで遊びに行くようになって。スケートしてる先輩の姿とか見て「カッコいいなぁ」って憧れてましたね。世の中に対するオルナタティヴな生き方をそこにみたっていうか。今も地元でクラブやったり、お店やったりしてる人たちいますけど、あぁいう福岡の先輩たちには今でも憧れてます。

——自由に自分の思う通りに生きている感覚への憧れみたいなところですかね。……あと他のメンバーは平成生まれだけど、上野くんは昭和生まれですよね。

そうですね。生まれ年は1988年で、昭和63年。でも、学年的には平成と昭和がどっちもいる感じ。

——ちょうど狭間の年ですね。一番古い音楽の記憶って何ですか?

原体験的は完全にThe Beatlesです。小学校低学年の頃に「Nowhere Man」のギターソロを聴いた時に衝撃を受けて。これって、ただ音が鳴ってるだけじゃなくて違うレベルの何かだなって思ったんですよ。自由っていう概念があるとしたら、それがそのままスピーカーにつながって音になってるなって感じて。

——すごい感受性ですね。

まぁ、感じたことを今の自分が言語化したらそんな感じかなってところです(笑)。でも、その時からなんとなく「みんな将来それぞれいろんなものにハマるんだろうけど、俺は音楽に夢中になるんだろうな」ってのは感じてました。

——初めて楽器に触れたのはいつですか?

小学校の高学年になってからです。当時、俺は隣のクラスの担任の村瀬先生っていう人にサッカーを習ってたんですけど、その人がギターも教えていて。一緒にサッカーやってた友達もギターを習ってたんで「俺もやる!」って習わせてもらってました。

——音楽の趣味自体はずっと洋楽志向だったんですか?

いや、そんなことなかったですよ。The Beatlesとスピッツがすごく好きだったんですけど、その二組は影響がデカすぎて特別枠って感じで。それとは別に普通にチャートで売れてた音楽も聴いていました。L’Arc(〜en〜Ciel)とか、GLAYとか、色々ね。

——あぁ、わかる。僕も平成元年生まれですけど、あの頃、みんなL’ArcとかGLAY大好きでしたよね。「HONEY」とか「Winter Again」とかカラオケ行くと必ず歌うやついたなぁ。

この間、地元のバンドマンの先輩とカラオケ行ったんですけど、普段やってる音楽は全然そんな感じじゃないのに、やっぱり、みんな歌うのはL’Arcとかなんですよ。「Lies and Truth」とか、今改めて聴くと「あぁ、そりゃ売れるよな!」って思う。すごいっすよ、やっぱり。

——あぁいうスケール感のバンドって今なかなかいないですよね。

日本人が好きなツボをついてるというかね。

NirvanaとかRageを共有できないヤツとは何を話しても通じ合えないと思っていた、あの頃

——うーん、そうか。まぁ、話を戻すと、少年時代の上野くんはThe Beatlesとかクラシックなロックの名盤的なものも聴きつつ、同時にチャートで流行ってる音楽も聴いていたと。

そうそう。現行の洋楽を聴き始めたきっかけはガレージ・ロック・リバイバルのムーヴメントの影響ですね。The StrokesとかThe Libertinesとか、あとMando Diaoとかが出てきて……めちゃくちゃ興奮した。The Beatlesなんて今、世界で俺しか聴いてないんじゃないかぐらいにその頃は思ってたんだけど、普通にカッコいいものとして人気だったんだって当たり前のことに気づかされて(笑)。そこから、『Rockin’on』とか『Cross Beat』とか『Snoozer』みたいな洋楽雑誌を買い始めて。『NME』とかは洋雑誌で流石に高くて買えないから、レコ屋に立ち読みしに行ったりしてましたね。

——Mando Diao、懐かしい! 1stの『Bring’em In』は大名盤ですよね。

でも、まんまThe Beatlesで「これ、いいの?!」ってマジでビックリしましたけどね(笑)。同じ試聴機に入ってた、The Vinesとか、JETとかも同じタイミングで聴いて好きになっていきました。新しい音楽との出会いっていうところでいうと、夏休みの間だけ来てくれてた大学生の家庭教師のお兄さんの影響も大きくて。僕が『Bring’em In』のCDを机の上に置いてたら「お前、これ好きなの? じゃあ、これも聴きなよ」って持って来てくれたのがThe Clashの『London Calling』で、それがめちゃくちゃカッコよかったんですよ。「カッコよかったです」って先生に感想を言ったら「また、違うの持ってくるよ」って言ってくれて。これはいい先生が来てくれた……と思って、次の週を楽しみに待ってたんですけど、翌週、先生が持って来たのがJoy Divisionの『Unknown Pleasures』で。めっちゃ期待してCDを再生したんだけど、流れてきた音にマジでビックリして。「これはなんだ……?」と(笑)。レコーディングされているもので、こんなに音圧なくて演奏がヘボいバンド聴いたことなくて、衝撃を受けましたね。

——ある意味で、音楽の英才教育であり、スパルタ教育ですね(笑)。

「でも、先生がイイって思ったんだから」と思って、1週間聴き続けたら、繋がるはずのないシナプスが繋がっちゃって、完全にスイッチが入って(笑)。そこから、もうとにかく何でも聴こうと思って音楽漬けになりました。

——それ、音楽好きのあるあるのような気がする。無理して聴いてたら、いつのまにか……みたいな。

ありますよね。親父がThe Eaglesが大好きだったんですけど、俺はベルボトム履いて、ネルシャツとかクソダサいなってずっと思ってて。でも、大学生の時に突然良さがわかった。そういうダサいなって思ってた音楽ほど、反転してめっちゃカッコいいなって好きになるじゃないですか? あれ、不思議ですね。

——そういう音楽こそ人生レベルで大切なものになったりしますからねぇ。ちなみに最初のバンドを組んだのはいつ頃だったんですか?

いや、実はバンドはやりたかったんだけど、なかなか機会がなくて。バンドやる前に俺、中2でベース買ってるんですよ。急に弾きたくなって。ポール(・マッカートニー)に憧れてたのかもしれないけど。

——でも、ギターとかならわかるけど、ベースって1人で弾いててもあんまり面白くないんじゃないですか?

天邪鬼だったのかもしれないですね。みんなエレキギターとかやってるから、俺はベースやろうかな、みたいな。あと、その頃に付き合ってた女の子が新体操っていうか、バトンをやってて。その練習が忙しくてなかなか会えないから結構暇だったんですよ(笑)。じゃあ、俺もなんか新しいことやろうと思って、ベース始めたんです。

——1人でJoy Division聴いて、ベース弾いて、親富孝通りをほっつき歩いて……って上野くん、周りと比べると異質な存在だったんじゃないですか?

そうですね。あの頃はNirvanaとかRage(Against The Machine)に本当に心動かされてたから、それを共有できるやつじゃないと、何を話しても通じ合えないとか本気で信じ込んでました。

——それは……かなり尖ってますね。バンドを始めたのはいつだったんですか?

高校時代にコピーバンドとかはやってました。文化祭出たりとか……青春っぽい思い出でいうと『筑紫野ロックフェスタ』っていう市がやってるイベントがあるんですけど、これ本当に人が来ないフェスっていうか、祭りで(笑)。クラスの人気者をヴォーカルにして、コピバンでこのフェスに出たら、俺らの時だけ、めちゃくちゃ人が来たんですよ。福岡っぽいタチの悪い輩達が集結してハチャメチャに騒いだっていうのをすごく覚えてますね。あれは、楽しかったな……(笑)。

——東京に来るまではいわゆる、オリジナルをやるようなバンドは組んだことがなかった?

それこそ、JAPPERS(2009年に結成された6人組バンド。3月1日にミニアルバム『REALITY IS A DREAM』をリリース)が初めて組んだそういうバンドだったかもしれないですね。音楽をやるぞっていって東京にやってきた、あの頃の初期衝動が詰まったバンドだと思います。

何をやっても、しっくりこなかった消去法でバンドを選んだという感覚

——東京に出てきてから、上野くんはそれこそさっき話にも出ていた雑誌『Snoozer』の編集部でバイトしてたんですよね?

そうなんですよ。あの経験はデカかったですね。働き始めたら、めちゃくちゃ忙しくて、全然学校行けなくなっちゃったんで「これは厳しい」と思って、一年ぐらいで辞めちゃったんですけど。でも、そのあともよく「手伝って」って言われて、校了2週間前とかにヘルプで行ってましたね。テープ起こしから、音源の整理から、色々雑務をやってました。

——音楽ライターとかには興味なかったんですか?

そもそも『Snoozer』にバイトで入ったのも、音楽関係の仕事についたら面白いかなと思ったからなんですけど。やってみて、俺には無理だなって思いました。でも、当時、知り合った人で仲良くしてもらってる人はいっぱいいます。フジロックにテントを建てる係として連れてってもらって、テント建てるだけ建てて、あと取材もせずにただ遊んでた……とか、いい思い出ですね(笑)。素敵な大人達に囲まれて、すごく楽しかったっていうだけ。自分が書き手になれるとは思いませんでした。

——そこで音楽業界の現実なんかも目の当たりにしたんじゃないですか?

確かに。レコード会社には制作の人がいて、広告の人がいて、それとは別に事務所ってものがあって、こういうシステムで音楽ってのは作られていて、ミュージシャンは活動しているみたいなのをなんとなく理解したっていうのはあるかもですね。で……なかなかしんどい業界だなって思って(笑)。東京でバンドをやっていくのもそんなに面白いものでもないのかなぁって、いつの間にか思うようになってました。

——まぁ、そうなりますよね。普通に考えたら。

だから、地元帰って公務員になってもいいのかもなぁってその頃は思ってました。実際、一回、全然音楽とか関係ない会社に就職したんですよ。でも、働いてみたら俺はこの東京って街が好きじゃないし、仕事も楽しいけど、自分って人間は音楽しかないなって思うようになって。その時に初めて「俺は音楽やって食いたいんだ」ってことがわかったんです。だから、未だにバンドやってるのは消去法ですね。これやってもダメだし、あれやってもダメだし、じゃあ音楽やるかっていう。それを本腰入れてやろうって思ったのが大学卒業して、しばらく経った後の20代の半ばですね。

——会社辞めてから、Yogeeに入るまでは何やってたんですか?

バイトしながらJappersをやったり、友達のバンドのサポートやったりしてました。後、CMの曲でベースを弾くみたいなスタジオ・ミュージシャン的なことも。白波多カミンちゃんのバックをやったりもしてましたね。その頃に培ったことは結構今でも活きてて。技術だったりとか自分がカッコいいものを大切にしていくってことも大事なんですけど、歌う人が歌いやすいようにベースを弾くとか自分をある程度殺すことも必要というか、その面白みもこの時期わかりましたね。ただ、闇雲にバンドやってるだけじゃわかんなかったことだと思う。

——Jappersで上にいきたいみたいな気持ちはなかったんですか?

うーん……みんな、マイペースな人たちだから、売れたいとか戦略的にやりたいとかそういうのが一切なかったので。当時はもうちょっとちゃんとやりたいなとか思ってましたけど、今は納得してますね。そういう人たちでしかできない音楽もあるんだよなって。

——Yogeeに入らなかったら、今ももしかしたらサポートとかスタジオ・ミュージシャンとしてやってたと思います?

未だに長期的に見たら、そういう未来もあるのかなって思いますよ。バンドって、いつまでもあるものだとはやっぱり俺は思ってないし。俺、Nona Reeves小松(シゲル)さんを、すごく尊敬していて。Nonaって20年ちょっとやってますけど、毎年年末にクアトロ(SHIBUYA QUATTRO)でワンマンをやるんです。これ、実はめちゃくちゃすごいことだと思うんですよ。小松さんは佐野元春さんとかいろんな人のところで叩いていて、奥田(健介)さんもレキシとかで弾いてて、西寺(郷太)さんもいろんな活躍してるけど、それでもNonaはずっと続いてるし、デビューした頃と同じくらいのキャパシティだったりムードをキープし続けている。それって、めちゃくちゃ素敵な人生だなって俺は思ってるんです。好きな音楽を同じメンツでやり続けるっていうバンドのコアな部分をずっと維持してるっていうことが、すごくリアルだと思う。そういう風に音楽が続けられたら、ある意味で理想的な形だなって思うんですけど。

——なるほどなぁ。

あと、地元の先輩で、The Cigavettesの山本幹宗さんっていう人がいるんですけど。くるりとか銀杏(BOYZ)とかのサポートやられてる人で。今でも週に1〜2回飲みにいくんです。先輩だけど一緒に人生を歩んできてて、結婚したりとか、お子さんができたりとか、そういう過程をみてきてるんですね。「あぁ、人生ってこういうことなのかな」ってある種の理想の形を先取りで見せてもらっているような感じがします。

——ミュージシャンとしての生き方の見本というかね。上野くんは、周りの大人たちから素直に学んできたような気がしますね。

うん。そうかもしれないですね。

テネシー州ナッシュヴィルでつかんだグルーヴの真髄・街と音楽の関係

——ベーシストとして影響を受けた人っていますか?

うーん、どうだろう。でも、ハマくんとか見てるとあぁいう人たちには一生かかっても勝てないなって思いますね。ベーシストとしての知識がすごく深いし。俺はタイプ別でいえばですけど、Paul Simononみたいな感じだと自分では思っていて。「これ、どうやって考えついたの?」とか「これどうなってるの?」って部分で勝負する感じだと思います。

——ここ一年ぐらいで、影響を受けた音楽って何ですか?

色々あるんですけど、ただやっぱりレゲエとかダブとか、Sly and Robbieみたいなあの辺はよく聴くようになりましたね。

——最近、Yogeeのグルーヴが目に見えて変化したような気がしていて。ヘビーというか、身体全体を芯から揺らすようなものになった気がするんです。

グルーヴの変化に関していえば、個人的にはアメリカ・テネシー州のナッシュヴィルに行ったことが影響してる気がしてます。

——あぁ、皆さん、それぞれ休みを取って旅行に行かれたって伺いました。上野くんはナッシュヴィルだったんですね。

そうそう。で『グランド・オール・オプリ』っていうカントリーの殿堂みたいなところに行ってきたんですけど。何に驚いたって、音の鳴り方が全然日本と違うんですよ。そもそも、音がすごくちっちゃくてナチュラルで。ステージで鳴ってる音をちょっと調節してスピーカーから出してるだけみたいな感じ。それは多分、音の響きをきちんと聴かせるために音量に余裕を残してるんだと思うんですけど。サスティンの最後、音がクッと止まるまでしっかりと聴こえるんです。そこまでコントロールが効くと、グルーヴに自然とうねりが出るんですよね。あぁいう引くとこもあって、押すとこもあってみたいなグルーヴを目指したいなって思ってます。

——筆さばきがきちんとみえるような演奏というか。

その柔らかさというか、グラデーションみたいなものが出せる演奏力を持っていないと、海外で勝てないんだろうなぁって思いましたね。

——Yogeeがやっぱり面白いなって思うのは、全員リズム楽器の経験者じゃないですか。粕谷くんは言わずもがなだけど、健悟もドラマーだったし、ボンちゃんは前のバンドでベースを弾いてたし。

あぁ、そういう意味でいうと、健悟やボンちゃんはその辺、かなりグルーヴに関して厳しくやってる感じがありますね。

——なるほど。

海外で勝負していくってなると、リズムの部分ってめちゃくちゃシビアになってくると思うから。そこで戦うためにはもう一段階、階段を昇れたらなってのはありますね。

——ナッシュヴィルには、もともとそういうグルーヴの真髄探しみたいな目的で行っていたんですか?

いや、それは思わぬ副産物みたいなもので。俺がナッシュヴィルに行って一番肌で感じたかったのは、街と音楽の関連性みたいなものなんですよ。(Bob)Dylanが『Nashville Skyline』っていう、ナッシュヴィルのミュージシャンたちと同じスタジオで録った作品があるんですけど、アレを現地で聴いてみたかったんです。やっぱりDylanとか、井の頭線乗りながら聴いててもよくないんですよね。東京の街を歩いている時には、宇多田ヒカルとかがしっくりくる。そういう、LA行って、Jackson Browne聴いたりとか、ニューヨーク行ってヒップ・ホップを聴くみたいなことがやってみたかったんです。

——実際、聴いてみてどうでした?

音楽って、ただの音なんですけど、創られた土地のいろんな要素を内包していて。空の色とか、街の雰囲気とか、人と人との距離感とか、そういうのが全部現れているなって思いました。具体的には、空間を強く意識しましたね。アメリカならではのパーソナルスペースの感覚というか。東京のライフスタイルって壁一枚を隔てて、隣に人が住んでるってことが当たり前になってるじゃないですか。満員電車に乗って、距離感ゼロの中で仕事に向かう。そういう風に暮らしていると、アメリカで創られた音楽にあるような感性ってどうしても育まれないなって思いました。そもそも、暮らし方が違うから、音も違ってくるんだ、と。

——それって別にアメリカがいいとか悪いとかって話でもなくて。モノマネじゃダメだ、ってことですよね。

そうです。だから、東京に住んでいるからには東京の音楽をやっていくことがすごく大事だなって思って。最近、Yogeeはアジアに積極的にライヴしに行ってるんですけど、健悟は最近「世界に出る」ってことを強く意識しているんですね。それを実現するためには、この俺らが生きている東京の感じを伝える手段を学んでいかなきゃいけないと思っていて。もしかしたら、それは海外に思い切って出ないとわからないことなのかもなって思ってます。この辺は今後のキーワードになってくるんじゃないかな。

大人になったような、原点回帰したような音楽で東京のリアリティと幻想を描くということ

——『BLUE HARLEM』は上野くんとボンちゃん(竹村郁哉)が加入して、2枚目のアルバムですけど、この作品を紐解いていくためには加入した時から今にかけての話を聞くこともすごく大事な気がしているんです。そもそも、加入する前のYogeeに対する印象ってどんな感じだったんですか?

いびつで面白いグループだなとは端から見て思ってましたね。単純にいうといろんな要素が入ってガチャガチャしてる。この個性全開の集団に俺が入ったらどうなるんだろうって少し心配でもありました。

——加入して、すぐに『WAVES』がリリースされるわけですけど。このアルバム、今聴くと押せ押せというか、フレッシュでパワーに満ちた作品ですよね。

それは健悟が、ガッツリ4人でやっていきたいって思っていた気持ちが込められているからじゃないですかね。隙間が全然なくて、元気一杯(笑)。

——2016年の暮れぐらいから、Yogeeに合流してセッションし始めて、17年の1月に正式に加入が発表されたんですよね。どうなるかなって不安を抱えながらも実際に音鳴らしてみて、どうでしたか?

Yogeeってメンバーの仲がめちゃくちゃ良くて。一緒に生活しているようなもんだから、今、『WAVES』を聴いてみると、当初はそのムードに入り込みすぎていたかもなって感じもしますね。バンド全体のことを考えてっていうより、健悟とカスちゃん(粕谷)の「やるぞ!」って空気に引っ張られていた感じ。でも、そんなこと考える暇も余裕もなく、ただただ楽しんでましたけどね。

——『WAVES』のレコ発ツアーが終わって、次の作品を考える余裕みたいなものとか、メジャーデビューも決まってましたから、改めてバンドを振り返る時間もできたと思うんですけど。何か、こうしていきたいみたいなところ、個人的に考えていたことはあったんですか?

単純にもう少しチルっぽい要素を入れたいなぁとはなんとなく思っていた気がします。「Climax Night」とかあぁいうYogeeの良さみたいな部分は、絶対にあるので、あぁいう部分をもっと出したいなって。

——Yogeeに入って、やっぱ違ったなとか辞めたいなって思ったことはなかったですか?

それはないかな。もうちょっと頑張りたいなって思いは常にありますね。というのも、前回のツアー(2018年年末に行われた『CAN YOU FEEL IT TOUR』)の時は割と俺、戦ったんですよ。今回は「CAN YOU FEEL IT」っていう曲を軸にして一本筋を通すって決めて。あの曲って時代や環境が変わっても、音楽とそれを楽しむ人の関係性は変わらないってことを歌っているんですね。そのテーマをはっきりとわかりやすく表すために、サポートを入れたり、映像演出を導入しようって健悟を説得したんですよ。

——そんなことがあったんですね。

キーボードの(高野)勲さんとパーカッションの松井(泉)さんをサポートを入れることについても、健悟は結構「いや、どうなるかな」って渋ってたんですけど、曲の持っている普遍性みたいなものをきちんと説明するために絶対に2人の存在は必要だって伝えました。実際、そういう風にテーマを設定して、それを伝えようと色々なことにトライしたことで、今までのツアーとは格段に違う高みに到達できたと思うんですね。

——ミュージシャンとしての、一つの成長というか大人の階段を登った感じがありますね。『Spring Cave e.p.』のリード曲の「Bluemin’ Days」や「CAN YOU FEEL IT」を聴いた時に、すごくいい曲だと思って興奮もしたんだけど、まだ『WAVES』の感じを引きずってるのかなって不安もやっぱりあって。「Bluemin’ Days」のカップリングの「Prism Heart」の方が次のYogeeのモードにはふさわしいんじゃないかなって勝手ながら思ってた(笑)。でも、今の話を聴いて、Yogeeは確かに前を向いて進んでいたんだな、と。

言いたいことは、わかりますよ。確かに「大人っぽく」っていうのは今作の一つのテーマとしてあった気がしますね。みんな歳をとっていってるわけだし、いいことも悪いことも人生の中で経験していて。それを音楽として昇華したくて、サポートのお二人にも参加をお願いしたっていうのはあります。

——そういうツアーを経ての達成感みたいなものを携えながら、『BLUEHARLEM』の制作に突入できたということも、やはりアルバムの完成度には影響しているのかなとも思うのですが、どうですか?

それはあったとは思いますけど、制作の段階ではスケジュールがタイトだったこともあって、俺自身は割とノープランで健悟に任せていた感じかなって気がします。

——音楽的にいうと、原点回帰的なと言ったら大げさですけど『PARAISO』の時に無意識に表出していたダブ的な要素がより意識的に出てきていて。ここが、結構肝だったのかなと思うんですが。日本のロック史の中でFishmans以降、どこかで途切れてしまった大事なコンテクストを今、Yogeeが埋めようとしている……とも感じたんですけど。

あぁ、それはあるかもですね。海外行ったことで、思ったのがやっぱり自分たちの強みをしっかり出していかなきゃいけないと思ったんですね。なんでもやれるバンドじゃ、絶対通用しないから。こういうノリをやらせれば俺らは世界で誰とでも闘えるっていう一つの型を用意して、研ぎ澄ませていきたかったってのはあるんですよ。Yogeeは日常の中にそういうダブ的な要素みたいなものを見いだしているバンドだと思うんですね。Yogeeに加入する前、「Climax Night」を俺が初めて聴いた時に思ったこともそれで。東京という街のカルチャーとして、そういう要素を取り入れている。このアルバムで僕らが成し遂げた成果は正直、まだまだだったと思うので、次の作品でそれをもっと突き詰めていくことになるのかなと。

——うーん。でも、僕はその過渡期にある、まだ自分たちの強みみたいなものに気づいているようで気づいてない状態の作品ってすごく好きですけどね。The Beatlesで言えば『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』に到達する前の『Revolver』や『Rubber Soul』のような。

ははは、確かにね。そう言われてみると、そうかもしれない(笑)。意外と自覚してなかったけど、ちゃんとオリジナルなフィーリングはあったみたいな。その塩梅の作品が好きって気持ちはリスナーとして共感します。

——タイトな制作期間や、初めてサポートを入れてがっつり作ったとか、そういう不安定な要素が独特のムードを醸し出しているっていう面白さがこのアルバムにはある。

すごく面白いですね。そうかもって思ってきた(笑)。たしかにこのアルバム、「これをやろう!」って決めて作ったアルバムじゃないから、無意識の産物っていう感じもあって。取材とかでも、正直、マジで何を話していいのかわからなくて、困ってるところはある(笑)。

——そういうなんとなくできてしまったものって、往々にしてのちに大名盤として語り継がれることになると思うんですけどね。メンバーやサポートの方のプレイで、これが驚いたとか面白かったみたいなことって記憶にあります?

「SUNKEN SHIPS」は、もともと健悟の弾き語りでほぼ完成していて、バンドのメンバーはどうしようかなって感じでレコーディングに入ったんですよ。それを勲さんがめちゃくちゃ仕切ってアレンジしてくれて。具体的に音符でどうのこうのってやりとりはなかったんですけど。「こうしたほうがいいんじゃない?」とかアドバイスしてくれて。

——「SUNKEN SHIPS」は、上野くんのプレイが素晴らしかったとボンちゃんが言っていましたけど。

あぁ、たしかに「SUNKEN SHIPS」は今までのYogeeではやってこなかったアプローチですね。The Beatles的というかポール・マッカートニー風のベースを弾こうと思ってチャレンジしてみて。今までのYogeeにはなかった要素ばかりが詰め込まれた楽曲なので、これをできたのはバンドとしての受け皿の成長かな。

——1曲目の「blueharlem」に関していうと、上野くんはこの曲は歌詞がないほうがいいんじゃないかって思ってたらしいっすね。

そう。ちょっと説明的というか、言い過ぎかもなぁって思ってました。言葉がないほうが伝わるって場合もあるので。でも、今回はトータルで見るといいバランスに落ち着いたのかなって思いますね。『WAVES』の時の情報過多な感じとは違って、いい塩梅になっている気がする。健悟は取材とかでよくこの作品が島三部作の最後で、旅が終わったって説明してるけど、大人になってまた最初にいた場所に戻ってきたような感覚が『BLUEHARLEM』にはありますね。

——その感じは確かにわかります。Yogeeが自分たちの魅力を再確認して、それを超えていくよう何かを作ろうとした試みが見て取れます。

俺はYogeeは都市のリアリティというか生活的なところ、そういう場で生まれる妄想や想像、理想みたいなものを描いていくバンドだと思ってるんですよ。『WAVES』とか直近のシングルでは「海」的なモチーフがフィーチャーされてましたけど、今作では島のことを歌いつつも、やっぱり都市に回帰していくような感じがして。歌ってる人間は実際には島を旅しているというよりも、都市にいるというような感覚があるような気がするんです。「Climax Night」では夜の幻想的な東京の街を歩く、健悟の姿がビデオに収められてましたけど、ちょっとそれに近いテンションですよね。意図して「『PARAISO』をやろう!」とかはバンドでは言ってなかったですけど、計らずとサウンド的にも歌詞的にも原点回帰して無駄なものが削ぎ落とされていった感じもある。

——リアリティというよりは都市生活者が洋行の夢をみているようなモンド感やエキゾ感みたいなものが、漂っている気もします。夢を見ているんだけど、体はきちんと現実にあるような。

それはすごく本質的な指摘だと思います。僕の個人的な思いとしては、やっぱりミュージシャンは世の中のことを歌って言ったほうがいいと思ってるんですよ。100%ファンタジーじゃなくて、世の中と繋がっているとか結びついてることが大事で。

よくわかんないものができたけど、これって最高だよね?

——上野くんのインタビューは次に向けた発言が多かったと思うんですが、今後、どうしたらYogeeはもっと良くなっていくと思ってますか?

まだまだ完成期ではないから、この作品で見えた答えらしきものに向かって、研ぎ澄ませていくってことじゃないですかね。今まで以上にもっとフィジカルな力がついたら、PRの方法とか音楽以外の部分でもやれることが変わってくると思うんですよね。

——本質的なところに自信があれば、やれることがどんどん増えていきますよね。

そういう意味では今作の制作ではまだまだ伸び代が全然あるし、やれてないことややってないことも沢山あるって気づけたので。次に作る作品が僕らにとっての『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』になればいいなとは思ってます。

——まぁ、でも『BLUEHARLEM』は大傑作だとは思いますよ。

だと、いいんですけどね。

——バンドって「バンド・マジック」って言葉があるぐらい予測不可能なことが起こりうるものじゃないですか。だから、面白いし、こういう作品もできる。

そうですね。今の時代、バンドってフォーマット自体、めちゃくちゃ無駄が多いですよね。やるんだったらレーベルを通さずに、1人で音楽作って、1人でアップロードしてってほうが音楽を聴いてもらう上では効率がいいに決まってる。でも、そんな効率ばっかり考えてても、どうしようもないっすよね。「よくわからないものできたけど、これ最高だよね?」っていうのが、バンドの本質だと思うので。

——音楽だから、別に言葉にできなくても本当はいいはずなんですよね。

そうそう。感じていることは色々あるけど、それを言葉にせずにやってるってところが美徳なのかもしれないって思いますね。自分たちでもYogeeのこれからにはワクワクしてますよ。どんなことが起きるか、わからないのが、このバンドの魅力だから。他人事みたいだけど、これからが楽しみですね(笑)。